朝日が差し込む空の行方
ここでしばらく文章を書いていたことが、そのまま創作意欲につながってしまった。
一旦始めてしまえば、言葉を紡ぐことの難しさに改めて頭を悩まされ、必死になって頭の中の語彙をかき集めているうちに、気づけば一週間も経っていた。
暑くて日差しの強い日が続いている。
変に文章を書くスイッチが入ってしまった私は、予定のある時以外、人と会うこともなく家にこもっていることが多かった。
それでも、早朝には出歩いていた。
私の住む場所は、日の出前後は、日中の暑さが嘘のように、すっきりと、キンとした空気が気持ちいいのだ。
普段は夕方に散歩に出ようと思い立つことが多い。
それで、夕日が綺麗に映り込む水辺の散歩道が、いつものコースだった。
朝早く外を歩いてみることにした時も、だんだんと色づき始める空を眺めながら、惰性で、いつもの水辺へ向かう。さぞ朝日の反射が綺麗だろうと期待しながら。
でも、思い描いていたような景色は見れなかった。
立ち止まって考えれば、馬鹿みたいな話なのだけど、その水辺の散歩道が映すのは、西の空だったのだ。朝日の上る東側は住宅街にすっかり隠されている。
太陽は東から昇る。
そんな当たり前のことを全く考慮していなかった自分の間抜けさに驚きつつも、だからいつも道に迷うんだと納得する。
夕方にはただ暗くなるばかりだった東の空が、朝には色彩豊かに染まることは、知識にはあれど、それまで大して気にもとめていなかったのがとても悔しい。
それでも、振り返った時に目に入る空は、圧巻だった。
雪が降り、葉っぱの色素を抽出した日
もう数年前のことだというのだから、時間の流れは信じられない。
冬の、生物の実験だった。
夕方6時から始まる授業だったため、この科目を選んでいる生徒は少なかった。
総勢6人の小さなクラスだったのだ。
ほうれん草の葉をすりつぶして、それぞれの色素を分離させるだけの簡単な作業。みんな、手元に集中するよりも、雑談に花を咲かせていた。
その上、この日は、その街では珍しく雪が降った日だった。
雪の降る夜、少人数で、冗談好きの教師の元、簡単な手作業をしている。
絶好の雑談日和だった。
話は次第に盛り上がっていき、ついにそれぞれの結婚観について、実験室じゅうに意見が飛び交った。
しかし、(恥ずかしながら)そういう場でワイワイと話すのがどうにも上手くできない私は、ただじっと聞いているほかなかった。
定年退職を目の前にした生物教師が言う「娘が独り立ちしたあとも、妻と暮らせば暮らすほど、彼女のことをどんどん好きになっていくんだ。恋っていうのは理由ないものなんだよ」
聡明で目立ちたがり屋な男子学生が言う「最高のパートナーを見つけるのに一番重要なことってね、まず自分自身を知ることなんだ」
一緒に葉っぱをすりつぶしていた隣の子が言う「なぜ今の彼を好きなったのかは上手く説明できないけど、家族に彼を自信を持って紹介できるのは確かだよ」
6人という人数の中では、私の存在の割合はけっこう大きいもので。
なぜか一人一人が話していく流れになってしまった部屋の雰囲気は、私に冷や汗をかかせた。あくまで実験の本筋から逸れた雑談なので、誰も無理強いはしなかったけれど。
それでも私にできたことといえば、明日は雪の影響でバスが動かないんじゃないか、というつまらない世間話だけだった。
人生のうちの、どの段階で「自分の意見を口に出す」能力を身につけるべきだったのだろうか。
私はいつ、その習得を怠ってしまっていたのだろう。
同じ道をたどっていると思っていた同年代は、いつの間にか私よりはるかに高い能力を開花させている。
言いたいことを考えているうちに話題が次に移っているんだ、と言い訳できたのはいつまでだったのだろうか。
誰かが親戚の壮大な駆け落ちを熱心に話している横で、ほうれん草に住まっていた色素は、4つに分かれて、着々と紙をのぼっていった。
黒猫と織りなす早朝のひととき
今週のお題「星に願いを」
近所の猫が、ときおり窓の外を通っていく。
なかなか猫をさわる機会のない私は、慌てて呼び止める。
急いで玄関の外に出て、怪訝そうに待っていてくれた猫と対面する。
しゃがみこむ。
手を差し出せば、猫はおそるおそる近づいてくる。
完全には信用されていないのか、わざわざ大回りして、私の背後から歩み寄ってくる。
私もなるべく目で追わないように、その場に佇む。
猫はそっと手の先の匂いを嗅ぎ、何も食べ物を持ってないと知ると、ふいと歩き去ろうとする。
呼び止める。
猫は振り向き、はじめて私の顔を見上げる。
もう一度、思わせぶりに手を動かせば、猫は再び近づいてくる。
今度は、少しだけ、すりっと己の頭を私の膝に押しつける。
意味ありげに揺れるシッポに少しふれれば、撫でるのはそこじゃないだろ、と猫はまた頭を膝にこすりつける。
耳の後ろをかいてやれば、猫はさらに体重を預けてくる。
喉がゴロゴロと鳴り出す。
そこから、ゆっくりとした時間が始まる。
気づけば、二十分が経っていた。
名残惜しげに立ち上がれば、私たちの間に通じ合っていた何かはあっけなく消えて無くなった。
早朝だった。
そこにいたのは、猫と私だけだった。
人生というものは案外単純で、こういう時間のために生きていたりするのだ。
願わくは、またあの黒猫に会えますように。
そして、一抹の桃源郷を、もう一度。
厄介な怠慢にはヒノキゴケを少々
水平に伸びた太い枝の上。
はじめは、灰色のぽこぽこしたものが何か、よくわからなかった。
石か、キノコか、はたまた新種の生物か。
指で触ってみれば、硬く、少し爪を立ててみれば、やんわりと食い込んだ。
なんのことはない、ただの木のコブだった。
その枝に、コケが共生しているのはわかる。
窪みに土と、何かのタネと、枯れた松の葉がのっかっているのも見える。
けれど、なんという種類のコケが、なぜその木を選んだのかは皆目見当もつかない。
ただの枝に、どうしてコブのようなものができるのかも知らない。
そういう病気なのか、その木の栄養の貯め方なのか、それとも全く別の理由か。
知らないのは罪ではない。
知ろうとしないのも咎められるべきことではない。
世の中には一生を使っても足りないほどの知識に溢れている。
だけど、知りたいと思っておきながら、目の前の快楽にかまけて後回しにしつづけるのは恐ろしい。
それを平然とやっている自分が恐ろしい。
絶対に来ない「いつか」を未来の自分自身に託して、今は何もしないのだ。
これを怠慢と呼ぶのだろうか。
過ぎてしまった時間は仕方がない。どうしようもない。
まずは、コケの名前から。
名前が与えられれば、そこから先につながるだろう。
ということで、これはたぶん、ヒノキゴケ。
「イタチのシッポ」とも呼ばれ、森林に自生するらしい。
次は木のコブを調べねば。
空に泳ぐクジラ雲を眺めながら
空にクジラが現れた。
そんな話が小学校の教科書に載っていなかっただろうか。
確か、1年生の国語の教科書の、序盤か中盤あたりに。
あのお話を教室で音読してから、何年が経っただろう。
あの頃から、時間も場所も遠く離れてしまった今、空にくじらぐもを見つける。
(背びれと胸びれが見当たらないので、どちらかというとシャケっぽいかもしれない)
どこを向いても青い空しか見えない快晴の中、この雲だけが低空飛行している。
そのとき、わたしは海の上にいた。
ほとんど波のない入り江で、それでもかすかな水の流れに揺れながら、目の前にクジラを見た。
もし空と海の間に陸がなくて、本当にひと続きのような空間だったら最高だったのにな、と惜しく思う。
くじらぐもを教科書で読んでいた頃。
あの頃は、ジャングルジムにたむろして、雲の形を当てるゲームをしていた。
そのうちの1人がカエルを手にジムのてっぺんまで登ったものだから、不運なカエルは、逃げようと少年の手のひらから飛び出して、意図せず大空に羽ばたいていった。
雨上がりのジャングルジムは、長靴との相性が悪くて、よく滑った。
あそこに浮かぶ雲は、クリームパンかウサギかで言い合いになった。
あのジャングルジムにいた子どもたちは、今、ずいぶんと違う道をたどっている。
数年前、わたしの通っていた小学校は廃校になったことを知った。
空はひと続きだというけれど、わたし以外の誰も、このクジラ雲が見える場所にいないことだけは自明だった。
ほんとにたまに、ごくたまに、あの閉鎖的な小学校の社会の中に戻りたいと思う。
大きな声で音読をしていた、あの教室に。
二度会うのは青いトンボ
綺麗、を多用しすぎるとそこに込めたい言葉の重みがなくなってしまう気がするのだけど、
私の絶望的な語彙の中では他に言い表しようがないので、やっぱり「綺麗」と言うことにする。
生き物、とりわけ昆虫のもつ青色は、目に毒なほど深く鮮やかで、その上、共感を求めない高貴さがある、とふと思う。
私が虫たちの見事な青をどう思おうが、彼らには関係ないのだ。
その青色を私が認識したところで、どこかの本能が刺激されて、その虫に食べ物を届けてあげようとか、その虫のつがいを呼び寄せるような化学物質を発するとか、恐怖を感じて傷つける前に逃げ出したくなるとか、そんな遺伝情報は組み込まれていない。ただ、いい色だなあ、と感心するだけである。
そもそも、その青色だと思っているものも、昆虫の目からはどんな風に見えているのかすらわからないのだ。
彼らの色は、私のご機嫌を伺うために作られたものではないと仮定する。そうすることで、ますますその生物が魅力的に思えてきてしまうのは、私が所有するなけなしの興味がまだ健在だという証明に他ならない。
だからこちらも独りよがりに、私はその青を「綺麗な色」と呼ぶ。
そのくらいの勝手は許してほしい。
先日、少し遠出した先の湖のほとりで、2匹の青いトンボを見かけた。
意外と警戒心は少なくて、無計画ににじり寄っていっても、ある程度は近づけた。
1匹目。歩き出してすぐに、目の前をふらふら飛んできて地面におりたつ姿が目の端に映る。
羽に白黒の縞模様が施された、薄く青みがかった寸胴のトンボ。
調べたとところ、Eight-Spotted Skimmer という種らしい。黒い斑点が羽に計8つあるからだろう。和名がどうしても見つからなかったので、それっぽく ヤツボシトンボ とでも呼んでおきたい。
2匹目。そのあとすぐに、細長い何かが私の真ん前を堂々と横切っていく。
天然鉱石のような艶やかな青色を全身にもつ、糸トンボ。
軽く調べたくらいだと似た種の候補がいっぱいありすぎて、これだというものを特定できなかった。たぶん、Common Blue Damselfly (ルリイロトンボ) だと思う。
(画質の悪さ=私の技量)
どちらも綺麗だった。
奥ゆかしい淡白な青色も、無機物のような艶やかな青色も、とてもよく似合っていたよ、と伝えたい。
が、あいにく虫の言語には精通していないのと、写真を撮り終えた瞬間にどこかに消えていた俊敏さを見るに、私には到底無理な話だろう。
自由に駆られ、馬、草原に駆ける
毎夏、市内じゅうの馬が集められ、解き放たれる高原がある。
だいたい5月から10月の間、馬たちは半野生的な自由を手に入れるのだ。
高原に連れてこられ、馬運車から降ろされ、手綱を外され、もう行っていいよと人間が一歩下がる。
すると、去年の高原の記憶が一気に蘇ったか、尻尾をあげて全力疾走していくのだ。
ひろいひろい草地という名の「自由」を自覚して、冬の間に溜め込まれていた感情が爆発し、全身の震えをエネルギーに変換しようと躍起になっているかのように走る。走る。走る。
数百メートル先まで一気に駆けていって、点のようにしか見えなくなったと思ったら、次の瞬間には大回りのUターンをして、これまたすごい迫力で戻ってくる。
後ろ蹴りの演出も加えながら。
そしてまた風の如く、まるで人間の存在など忘れてしまったかのように、目の前を走り過ぎて行く。
その瞬間を眺めるのが好きだ。たまらなく好きだ。
一頭の馬が喜びをあらわに走り始めると、数日前からすでに高原入りしていた馬たちにも興奮が伝染して、疾走する馬軍団が一瞬ののちに結成される。
圧巻の眺めだ。
これから彼らは、馬同士だけに伝わる言語を駆使して、社会を形成していくのだ。
数十頭の馬たちは、大きく分けて二つのグループに自然に別れ、たまに数頭だけの"はみ出しもの"が生まれる。ちょうど、学校のクラス内にできる人間関係のように。
強いものは、内側へ。弱いものは、外側へ。
待ち受ける長い夏を前に、彼らは彼らなりの言語を通して対話を進め、自分の生きる場所を探っていく。
その春に生まれたばかりの仔馬も、何頭かいる。
そこで、他の馬との交流の仕方を学んでいく。
仔馬は仔馬同士で遊ぶのだから、不思議だ。やはり同じ若さをお互いに感じ取るのだろうか。
いい場所だと思う。いい季節だと思う。
彼らの意識には、もう冬に世話を焼いてくれていた人間のことなどを考える入る隙間などない。
お互いの力関係を確かめ、足元の草をはみ、次の集団移動の行き先を気にしながら、昼寝にふけるのに大忙しなのだ。
自由も暇じゃない。
彼らは今日も山のうえ。
(とりあえず詰めるだけ草を口に頬張る)