あの犬この猫そこの馬

自然観察と連想日誌。

自然観察誌によせる空想と紫水晶

「冷静に観察した論理的な外界」と「直感で受け取った内で渦巻く感情」が出会った先で生み出される物語には、大きな大きな価値があると思うのです。このことを端的に表した用語や考え方がきっとあるはずですが、今の私の知識では知っている言葉をつなぎ合わせることしかできません。

 

二週間ほど前、街のショッピングモールに入っている本屋で、思わず手にとってしまうような本と出会いました。

The Naturalist's Notebook

という自然観察誌です。

 

前半部分は自然を観察することの意味、観察・記録する際の心得やコツなどが、表紙に描かれているような鮮やかなスケッチと共に紹介されています。後半部分には、実際に自分で書き込めるようなスペースが用意され、5年分の記録ができるようなデザインになっています。すべて英語で書かれているので、読むのに時間をかけることになりそうですが、その手間以上にページをめくるだけの魅力があります。

この本はカレンダーの並び方が独特です。5年分の自然環境の変化が一目でわかるようにそれぞれの日付に5回分の観察記録を書き込めるようになっています。

 

このノートブックを本屋で見つけた時は、ここまで私の好みに合う素晴らしい本があったのかと、一人静かに舞い上がりました。

自然界で見られるものが丁寧にスケッチされ、それらがほぼすべてのページを彩っています。きっと子供への贈り物として購入する方も多いと思いますが、自分でパラパラとめくって楽しむだけでも十分価値のある本です。

 

冒頭で書いた通り、何かを創り出そうとするとき、「観察」という過程は切り離せないものです。特に自分以外の誰かと共有したいものや伝えたいことがあるとき、お互いの見ている世界を重ねる作業はとても重要です。一人一人が違う人生を生きて、異なる思考と共に全く別の世界を眺めている以上、自分の伝えたいことをそっくりそのまま理解してもらうのは不可能に近いと考えています。それは決して悲しむべきことではなく、完全に理解できないからこそ、人は他人に興味を持つし、生きることに飽きないのだとも思っています。

「観察」の結果は真とされる法則や論理に結びつき、他人と何かを共有するための力強い前提を与えてくれます。そこから続く独自の考えは、受け取る側にとって、異質さが少なくなり、受け入れやすいものになるはずです。

伝えるという点において、私はまだまだです。ですが、私が生涯かけていつか誰かと共有したいものは、特に自然を対象にした観察の先にあると信じているので、この二つの話題をつなげさせていただきました。

 

観察して伝える。このことに非常に長けていて、同時に私の大きな憧れでもあるのは、デイビッド・ジョージ・ハスケル教授です。先ほどの The Naturalist's Notebook の帯にも彼のコメントが載っていました。

数年前、初めてこの方の本を読んだときは衝撃でした。『ミクロの森』という書籍です。本の中では、原生林の中に1㎡の曼荼羅と呼ぶ場所を決め、その中で起こる自然の出来事を一年間見守った記録を自身の知識と共に記しています。ハスケル教授の連想は、一輪の花に始まってミクロからマクロにまで広がり、新しい世界の見方を提示されたように感じました。彼の文章の運びはとても綺麗で、生物学者でありながら詩人のようでもあります。アメリカでは、彼のような文章はネイチャーライティングとして評価されているようです。

ハスケル教授が私に与えた影響は大きく、ここでは書ききれないので、またどこかの記事で触れようと思います。

 

 

 私は小さい頃から天然石と呼ばれる綺麗な石が好きでした。覚えている限りでは特にきっかけなどはなく、純粋に透明で鮮やかな自然の産物に感動したのだと思います(私の前世は光りもの好きのカラスだったんじゃないか、と言われたこともありますが)。

なかでも、アメジストという石はお気に入りでした。これにはきっかけがあり、題名は思い出せないけれど、短い童話を読んでからだったはずです。主人公の男の子が、山でお土産選びに困っているウサギと出会い、沢の向こうで採れる紫水晶を持って行くといいよ、と提案した場面がとても印象に残っています。

その当時、アメジストの和語が「紫水晶」という響きになるのがいたく気に入り、加えて、沢の向こうでそんな石が採れるような環境に憧れました。それをお土産にもらえるなんてすごくうらやましいなあ、と思ったのを今でも覚えています。

 

それぞれの天然石には「パワーストーン」として神秘的な力がある、と言われることもあります。その考え方が妙に肌に合わなくて、実は一度、天然石から離れたことがありましたが、今はまた石の魅力に興味が戻りつつあります。

 

様々なものが混ざり合う力が強く働くこの世界で、透明で鮮やかな天然の無機物が存在することは、神秘と言えるかもしれません。科学で説明がつく今でも、直感的に脳内が受け取る感動は、事実とは異なっていても嘘とは言えないのかもしれない。ここ数年はそう考えるようになってきました。

今の私にはその仕組みを根拠と共に説明する能力はありませんが、それでも、論理的思考を押しのけて渦巻く強い感情には、注意を払うだけの価値があると思います。そこに本当の自分が現れている場合もあるはずです。

 

天然石は神秘的。原子の規則的な配列。

空想するのが得意。現実逃避。

自然観察が好き。泥だらけになったとしても?

動物と過ごしたい。人と関わるのが下手。

良い人になりたい。その嫉妬は何?

考えを伝えたい。もう誰かがやっている。

楽しく生きたい。そんなに甘くない。

 

書いていて、自分を構成する要素はすごく幼稚だな、と改めて気づきました。少なくとも私の場合ですが、これまでこんなところをずっと行ったり来たりしてきました。きっとこれからも続きますが、決して悪いことではなく、そうやってバランスを取りながら前に進んでいくのだと思います。

 

こうした感情の渦巻きは、時として新たな答えや面白いアイデアを運んでくれることがあります。

その感情の狭間で得たインスピレーションと、感情の外で淡々と記録され続ける事実は、統合された時、自分とは違う考えを持った人の心にも響く物語になると思うのです。

 

自分でもいつの日かそんな何かをつくる。可能性を少しでも広げられればと、言霊の力を信じて書かせていただきました。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

せん

ユキ、雪の結晶、Snowberry.

濃淡豊かで、でも茶色と暗い緑ばかりの視界の中、突然現れる白色の点々はすぐに目に入ってきます。近所の雑木林を散策中でしたが、その季節らしくない明るい色に、思わず足を止めました。

 

つい先日、知り合いからiNaturalistというスマートフォン用のアプリを薦めてもらいました。オンライン上の植物図鑑のようなもので、写真を撮るとその場で照合してなんという植物なのか候補をあげてくれます。

かなり精度が高いらしく、さっそく試してみようとその白くて丸い、実のような粒を撮影しました。

 

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Snowberries

 

1秒も経たないうちにそう表示され、それと同時に示された地図によると、このあたりでは一般的な植物のようです。

別名シンフォリカルプス。ギリシャ語由来で「共に実る果実」「鈴なりの実」

その中でもこれはセッコウボク (雪晃木) という観賞用にも人気の種類とのこと。

鳥に食べられることもなく、自身の花と葉にも置いていかれ、冬に取り残されているようでいて力強い生命力をもった、不思議な存在でした。直感で名付けられたかのような  Snowberry という名称は、とてもよく似合っています。

 

この実を見つけたのはクリスマスのあたりで、その日は暖かく、雪はほとんどありませんでした。散歩道ではたまに、オーナメントを身につけた裸木を見かけました。誰かが飾り付けたのだと思うのですが、自然の中で意図的に人の手が加えられたものは Snowberry とは違う存在感があります。

 

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もう一つは、雪の降った翌日のもの。

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木々に実った無機物の果実は、たまに見かけると、誰かのクリスマスにはずむ気持ちが体現されている気がして、なんだか嬉しいものです。

それと同時に、Snowberry との対比が面白い景色でもありました。天然の装飾品は、クリスマスという特別な日を祝う人たちの横で、むしろ自身の存在をいっそう特別にしているかのようでした。

 

 

私は昔、ユキという犬を飼っていました。シベリアンハスキーの血が入った雑種犬で、誕生日も本当の名前もわからない、迷い犬でした。なかなか前の飼い主が現れないのを見かねて家で世話をすることにしたユキは、今では私にとって幻のような存在です。広い高原に現れた一匹の犬は私たち家族に加わって、5、6年共に過ごしたあと、静かに世を去りました。

人懐こい性格の彼女は、私たちが初めて会った時、見かけに合わずトゲのついたゴツい首輪をしていて、車の旅によく慣れているようでした。前の家族がどんな人たちで、どんな子犬時代を送って、どうやって迷子になったのか。知る由もなく、まだ幼かった私は、新しい家族ができたことにただ喜んでいました。そして、いつ本当の飼い主が現れてこの子を連れて行くのか、とても怖くもありました。

そんなユキの記憶が今、私の中で曖昧なのは、ユキと一緒に過ごしている間、常に別れの覚悟をしていたからかもしれません。いつかユキをもっとよく知る人たちによって連れて行かれる日の可能性を頭のどこかでいつも意識していた気がします。

突然の喪失感に耐えられるようにしていた準備は、死という形で本番を迎えました。

そしてそれから長い月日が経った今、ユキと過ごした数年間は夢のような記憶になっています。決してユキを忘れることはないけれど、思い出そうとすると、つかみどころのない、でも確かに存在したという記憶だけ蘇ってくるのです。

 

これと同じような現象が、雪の結晶でも起こります。

新鮮な雪の日に外に出て、雪をすくうと、手にたくさんの結晶がつきます。顔をぐっと近づけてよく観察をすると、一つ一つが自然の産物とは思えないほど綺麗で豪華な形をしています。その精巧さに感動して、子供の頃は何度もそうやって遊びました。しかし、彼らは手の体温と息の温かさによってすぐに溶けてしまいます。

手のひらで水滴となってしまった雪の結晶の細部をあとで思い出そうとしても、なかなかうまくいきません。つい十秒前まで見ていた結晶の記憶は、確かに残っているけれど、それ以上のことは思い出せないおぼろげなものに変わるのです。

 

力強さと儚さが共存する思い出は、私の中に不思議な印象を残します。その先に別れがあることを知っている出会いは、今の瞬間を感じとることを難しくさせます。

きっと別れのないものはほとんどないのに、安心するためにそれらを永遠に所有する方法を考えてしまう自分がいます。

移りゆく変化を楽しめる心持ちでいたいものです。

 

今度、もう一度、Snowberry を見に行こうと思っています。

 

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

せん

 

追記:二枚目の写真にリスが偶然写り込んでいますが、撮ったあとで気づきました。見つけられたら、ぜひ。