あの犬この猫そこの馬

自然を基調に、エソラゴトをのんびり考えていく

猫気温計を考える -寝相と気温の科学-

科学とは名ばかりで。

きっと一年通して猫を見ている人ならとても当たり前の話なのかもしれない。

それでも私史上、半々世紀の大発見なので、ここに記す。

 

猫の寝相は気温の上昇とともにダイナミックになっていく。

温度に比例して無防備になっていく彼らの寝姿は、意外とわかりやすい指標になっている。

 

仮説の証明に協力してもらうのは例の黒猫。いつもの買い物帰りの道端で。

 

【13℃】きっと外で寝るか室内にいるかのギリギリライン。日光をじんわりと背中に集めて暖をとる。警戒心も強め。

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【16℃】一番快適そうな陽気。日干ししたあとの毛布のような匂いがした。撫で終わったあとに、名残惜しそうな顔をされたのもこの時。

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【20℃】外にいたいけど、日光は強すぎる。木陰でうだることに決めた図。もはや警戒心のかけらもなかったが、撫でられるのも億劫そうで相手にされなかった。

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(君、そんなに白いとこあったのね。)

 

日常を繰り返し、その時々で好きだなあ、と直感したものを集めていくと、たまにそれぞれの点が一本の線でつながることがある。

きっと不思議なことではないのだろう。

一見ランダムに見えても、やはりそれは1人の同じ人間の思考なのだし。

 

関係ないと思っていた二つのことが、一つの意味上につながった時の嬉しさといったらない。

猫の寝相と気温の相関に気づけた、こんな些細な出来事だけで、この世の真理にまた一歩近づいてしまったような背徳感のある"うぬぼれ"に一瞬でも浸れるのだ。

 

本当は、10℃の時とか、30℃の時も見てみたかったのだけど、その気温だとそもそも私にも写真を撮る気力があるかわからないので、ここで妥協することにする。

 

全力の脱力で夏を満喫しているのは、羨ましい限り。

ググッと伸びをしているところも午後の陽気を体現しているみたいで大変よかった。

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舞い上がっているのは心か影か

この前の休日、可愛らしい街路樹の影を見つけた。

少なくとも、その時はそう思ったのだ。

 

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目に映る景色というのは、その日の気分によってずいぶんと変わるもので。

それはもう、文字通りに一変するのだから面白い。

 

空腹のまま歩けば、緑や赤や白なんかが鮮やかに見えるし、

コーヒーを飲みすぎると、光と影の濃淡が妙にくっきりと目に映る。

寝不足のときは、日差しが憎らしいほど肌に突き刺さるのを感じるし、

悲劇を描いた映画に感動したあとなんて、木々と空が一つの油絵みたいに融合しているような錯覚に陥るのだ。

 

 

その日は、街で大きな祭りがあった。

せっかくの休日を家の中で終わらせるのはもったいないと思い直し、いつもは着ないような明るめの服を選んで、ケータイと祭りのパンフレットだけ持って家を出る。

よく晴れていて、風が強く吹き付けていた。

遠くから、スピーカーで増幅された流行りの曲の振動が伝わってくる。

歩いていくうちに、楽しそうな騒音がはっきりと聞こえ始めた。家族連れがレモネードを片手に私とすれ違っていく。

祭りの予感に、当たり前のように、少しずつ気分が高揚していった。

 

それで、あと100メートルも歩けば祭りの会場が見えるというところで、この影を見つけたのだ。

まるで、桜の花びらか、打ち上げ花火のようで、なんて可愛らしいのだろう。

変温動物のごとく、あたりの雰囲気にすっかり染まっていた私は、ただの葉っぱの影に舞い上がった。そして、わざわざ立ち止まり、いい角度を探しながらカメラモードにしたケータイとともにその場をウロウロしたのである。

 

 

嬉しいとき、退屈なとき、景色はどう目に映るのか。

私の知らない多様な感性とともに、世界とどう関わっているのか。

答えは人によってきっとまちまちなんだろうなあ、と想像するのだけど、誰かにこんな抽象的な質問をする勇気は、私にはない。そのうち、いつか、聞くことにしよう。

 

こんな話をした後だけど、あとで見返しても、やっぱり綺麗な形をした影だと思った。

私の目にもちょっとは一貫性があるってことだ、良かった。

 

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早朝の森で枯れ葉はさかのぼっていく

その森にはナニカが住んでいる。

 

雨が降った次の日の早朝。

久しぶりの日差しに気を良くしたナニカは、木々の少ない、少しひらけた場所まで出てきて、あたりを見回す。

ナニカは遊びたくてうずうずしていた。

強風でふるい落とされたマツボックリを一つ手に取り、ちょっと考え込む。

地面にはたくさんの茶色い落ち葉と茶色いマツボックリ。

ナニカはもう少し色が欲しいと思った。

それで、枯れ葉を何枚かかき集めて、輪っかに並べ、その上にマツボックリをそっと置いた。

葉っぱの上に置くものはなんでも良かった。

マツボックリで閉ざされた円の中をナニカがじっと見つめているうちに、みるみる葉っぱの色が変わっていった。

半分だけ黄色に変わった枯れ葉たちを、ナニカは満足げに眺める。

眺めているうちにだんだんと飽きてきたので、もっと楽しいことはないかと、ナニカはその場を立ち去った。

 

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ナニカは、枯れ葉を、生きていた頃の青々とした葉に戻さなかった。枯れ葉の見た目をほんの少し新しくしただけ。

ナニカには死んでしまったものを生き返らせる力はないのか、それとも途中で飽きてしまっただけなのか。

いずれにせよ、落ち葉たちに再び生命が宿ることはない。

 

ナニカの正体は、なんでもいい。

森の妖精でも、小人でも、妖怪でも、魔法使いの弟子でも。

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それにしても、風が強くて、ナニカの輪を作るのには苦労した。

地面に落ちているものだけ、というルールを設けていたのだけど、落ち葉は軽くて、すぐ風に吹かれて飛んで行ってしまう。

自分自身の忍耐を褒めたい。

 

小学生の頃、ニルス=ウドという美術家の作品集を眺めるのが好きだった。

葉っぱや枝や木の実が、自然の中に、不自然な整合性を持って並べられているのが、不思議で面白かったのだ。

そんな彼の作品を思い出しながら並べてみたのだけど、なかなかに難しいものだった。

 

純粋な森の中身が、明らかにエントロピーの法則に反して設置されている様子は、自分で作っておいて言うのもなんだけれども、居心地が悪かった。

何かが起こっている、でもそれが何なのかがわからない。

計画もなく、"不自然な自然" を作ってしまったことに反省して、申し訳程度に「ナニカの物語」を付け加えてみる。

 

それでも作っている間は楽しかったのだ、救いようもなく。

 

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宇宙樹とサンドイッチと玄米茶

北欧神話に、宇宙樹と呼ばれる巨大なトリネコの木が出てくる。

 

世界樹ユグドラシル

色々な呼称があるらしいのだけど、私は今のところ「宇宙樹」が一番気に入っている。

なんだか、宇宙と聞くだけで、無限の広がりを持っているような響きが見えるのだ。

 

その根ですべての世界をつなぎ、宇宙の秩序を体現していると言われる巨木は、なにも北欧神話だけに出てくる概念ではないらしい。

樹木という存在は、いつの時代も、どの場所でも、人を魅了してきたようだ。

 

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アスファルトを押し上げる強靭な木の根)

 

それにしても、「宇宙樹」なんて想像力の源泉のような言葉、なぜ今まで見逃していたのだろう。

知人がだいぶ前にこの話をしていたのを思い出して、ようやく言葉の意味について調べる気になったのは、つい最近のことだ。

 

昔からの伝え話は、今でもいたるところで題材になっているのを見かける。

神話についての知識はてんでないので、もう少し知っていおいてもいいかもしれない。

 

それでも、思い返してみれば。

言い伝えを知らなくても、木に寄せる信頼は、元々どこか意識の奥底に組み込まれているらしい。

鳥居のすぐそばにそびえ立つ巨大な御神木を、幼い頃「おモクさま」と名付けて挨拶していたのを思い出した。

それだけで、なんだかその木に意思があるようで、「おモクさま、今日もいってくるね」と声をかけるだけで見守ってくれている気がしたのだ、不思議と。

(なぜか「ただいま」と言ったことは一度もなかった。)

 

宇宙の秩序の体現者と言われてしまえば、壮大すぎて人の尺で理解することを放棄してしまいそうだ。

けれど、人間と樹木の寿命が違うのと同じで、見ているものも聴いているものも違うのだとすると、あながちファンタジーの中だけの話ではないのかもしれない。

紀元前4世紀に生まれ、今も生きている木々は “長寿” なのだろうか。いや、おそらくこの考え方自体が違うだろう。彼らは長命なのではなく、ただ “別の時間” を生きているのである。すべての生物にはそれぞれのリズムがある。生命にとって、時間は単一な流れではない。その流れは、時と場合によって変わるのだ。(中略)彼らは、私たちの時間感覚とはまったく違うテンポの中で生きている、そんなことを気づかせてくれるのだ。

ーDavid George Haskell 教授(ブログ内にて)

An elder: Rocky Mountain bristlecone pine (Pinus aristata) | David George Haskell

 

 

これからの季節、彼らには木陰の提供者としても、ぜひ仲良くしてもらいたいものだ。

そこで、木漏れ日を眺めるのもまた雅。

さらに、お手製のサラミ入りサンドイッチと玄米茶なんてあれば最高である。

 

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青い貝殻と海に生きる心

「これは全部ムール貝の殻」

この圧倒的な青さはなんだと何個か拾って見せたらそう教えられた。

たった一種類の貝殻が浜辺を覆い尽くしている。

きめ細かい砂浜も、こういうザラザラゴロゴロした濃い色の浜辺も、ひっくるめて海はいいものだ、と心から言えたらいいのに。

 

 

「住む場所は海の近くじゃないといけないから」

そう言っていた人の言葉が忘れられない。

仕事は直接海に関わっているわけではなさそうだった。その人の心の在りかが海に深く根を張っていて、内陸にこもるのは窒息と同義だと言わんばかりの強い言葉だった。

 

散歩に行くとき、近くの海岸までのルートを教えてくれた。お気に入りの場所だと言って連れて行ってくれた先はやはり海岸だった。

 「疲れたときは特にここに来たくなる」

磯の香りと波の音、すこし冷たい風を心から堪能しているように見えて、確かに綺麗なところだけど、そんなにも楽しめるものなのかと感心した。

その様子を見て、私の心は、特別、水際に根ざしているわけではないのだと気づく。

 

 

自分の人生に何が必要かわかっている人は、眩しいほどに活力に溢れて見える。

好きなものに打ち込んでそれを惜しみなく人に教えられるというのは、才能だと思うのだ。真似したくてもできるものではない。

うらやましい、と思う。

 

ムール貝の青は、優しい色だった。

波にもまれて削られて、すっかり丸みを帯びた彼らの抜け殻は、ともすれば石と見間違いそうだ。

青い地面を一枚だけ写真に収め、貝殻の何個かを持ち帰って来た。それだけだ。帰ってから、思い出すことはほとんどない。

 

青い貝殻は、決して私の何かを変えたわけではないけれど、それでも、そのときの記憶がどこかに蓄積されていることを願う。

 

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超短編劇場「猫と人間の不調和なヒマツブシ」

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玄関に網戸あり。

ハチワレ猫と背の低い人間、登場。

いっしょにお辞儀をする。

 

開幕早々に、見事な跳躍を見せる猫。

 

猫、網戸にへばりつきながら「あ、むし!」

人間、音に驚いて「なにごと!?」

 

猫、虫を見失い我に返りながら「ツメがひっかかっておりられない!」

人間、すこし眉をしかめたあと笑って「あら、まるで向こうの屋根に、ぶら下がっているみたい!」

 

猫、もがいて焦りながら「しまった、後ろ足の支えがない!」

人間、目を細めて右手を口にやり「たいへん、あとちょっとで屋根から落ちてしまうわ! 助けたほうが、いいかしら」

 

猫、得意げに体を翻しながら「なんてね。ほんとは、ぜんぶ演技だったのさ」

人間、あくびを噛み殺しながら「もうつかれた。網戸は外したほうがよさそうね」

 

1匹と1人、お辞儀をせずに、そのまま退場。

 

あとに残ったのは網戸のある玄関だけ。

玄関、ため息をつきながら「めんどくさいなら、劇なんてやらなければいいのに」

玄関も退場し、劇は終了。

 

 

そんなくだらない劇を観たい。

 

参考:昔好きだった絵本『たこのだっこはてとてとて』

夢うつつは試験官の色彩

なんの実験だったか、あまりよく覚えていない。

 

たしか、牛乳、豆乳、スキムミルク低脂肪乳なんかを、試薬を使って特定するとかいう課題だった気がする。

数年前の生物基礎の授業だった。

これだけ綺麗な結果が出ていながら、5種類中3つは当てられなかったことだけは覚えている。

 

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正解を当てられた2種類のサンプルだって、実験結果を見なくても、見た目と匂いでなんとなく、牛乳か、豆乳か、それとも別のものか、わかってしまうものだ。

まぎらわしいし、まどろっこしいから、飲んで確かめたくて仕方なかった。

 

わかっている。そもそもこの実験の目的は、これからの本格的な生物学の授業をするにあたって、試薬の使い方を導入するといったところなのだろう。

 

それでも、そこで得られた点数はどうであれ、試験官の中の色は、綺麗だと思った。

こういう色合いのものがガラスの中に並んでいると、なぜだかコレクター精神をくすぐられる。

 

大真面目な授業の中で、自分の部屋に飾っておきたくてそわそわしてしまうような繊細かつ鮮やかなものを、仏頂面で観察しているという状況がすでに面白い。

評価のこともあるから、鮮やかさに目を見張っている場合ではないはずなのだけど。

 

私はとことん、そういう作業に向いていない。

目の前で展開される情景にかまけてばかりで、説明を聞きそびれ、記録を取り忘れるのだ。

あとで、この実験結果はどう思う?と友人に相談されても、「そうそうこれは綺麗な青だった」という言葉しか出てこないのでまったく役に立たない。そう答える私の横で、別の友人が見かねて、ここはこの反応があるからああでこうで、と説明してくれるものだから、その間にはさまれた私はますます使い物にならないのだ。

 

美しさに心惹かれる自分と、冷静に観察する自分を両方うまく飼いならしてこそ、だろうか。

けっきょく、論理的な観察ができるからこその面白さがあるとするなら、ぜひともそこに到達してみたいとは思う。

 

道のりは長い。

まずは、質問の意味が理解できていなくても、曖昧にうなずく癖をなおすところから始めるのがいいかもしれない。