あの犬この猫そこの馬

自然を基調に、エソラゴトをのんびり考えていく

鍋、猫、鍋、鍋。

写真をうまく撮れるようになりたい。

それでもって一眼レフを装備して、いっちょまえに構図や光の具合を考えたりしながら、この一枚といえるものを撮ってみたい。

でもまず、ちゃんとしたカメラは後回しにしよう。お金もかかるし、知識もない。まずは技術から極めるのがいい。

 

そんなことを考えながらスマホでパシャパシャやるのだけど、最近なんだかこの作業が腑に落ちない。空っぽの景色に空っぽの心を入れているようで、虚しくなることがある。

 

「特に興味もないのに、手持ち無沙汰になるとお菓子の成分表読んでみたり、目の前に貼られてるポスターを眺めたり、今の時代ならスマホ見たりしてるけど、そういう時のみんなは心の隙間を埋めるのに必死なんだ。何もしない時間がちょっとでもできると、あれこれ心配事を始めちゃうからね」

どこかの誰かが言っていた。

 

心の隙間は、風通しがとてもいい。ちょっとした拍子にヒュルリと「見ないようにしてた現実」が入り込んでくる。

その瞬間がけっこう怖かったりするのだ。

虚しさだったり、焦りだったり、逃げ出したい衝動だったり。

だから私(たち)は、隙間を埋めるものをずっと探している。

心も体も、基本は面倒くさがりにできているのだとしたら、当たり前なのかもしれない。一時的な快楽は、クセになるくらいラクだ。

 

マインドフルネス的には、ちょうど真逆のことを実践しようとしているのだろう。

「いま、ここ」に私がいることをよしとして、ぐるぐると回る自らの思考を客観的に静かに眺める。

こんなことをどこかの誰かが言っていた。

教えられた直後はやる気になるのだけど、やはり快楽の誘惑は大きい。

 

とりわけ、スマホの吸引力はすごい。何度離れようとしても、必ず吸い戻されてしまう。メールを確認しなきゃいけない。音楽だって聴きたい。動画だって見たい。

そんなラクさに負けた自分を目の当たりにしているようで、写真を撮るときもどこか落ち着かないのだ。

 

だから、猫は理想の生き方をしていると思う。

彼らは常に目の前のことに集中している。撫でてくれる人間が欲しいと思ったらすり寄って、ダメだとわかればあっけないほど淡々と別の場所に移っていく(もちろん例外もある。それはそれでかわいい)。自分のシッポで机の上の消しゴムを落としても、どこ知らぬ風。

1週間くらい、猫体験プログラムとか、ないだろうか。何かこの世の真理が見えそうじゃないか。

 

スマホカメラとどんな因縁があったとしても、撮りたいものは次々と現れてくるので、けっきょく私は今日も負けるのである。

 

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ブログタイトル、正しくは

やかん、炊飯鍋、猫、鍋、蒸し器