あの犬この猫そこの馬

自然を基調に、エソラゴトをのんびり考えていく

木漏れ日と日食。地面に浮かぶ三日月。

昨年の夏、北米で皆既日食があった。

その時ちょうどカナダに居合わせていた私は、日食の一週間前にちょうど自分の滞在先が太陽が欠けてみえる該当地域だと知る。

 

ぜひとも観察しようと、太陽を見る時専用の保護メガネを買おうとしたのだが、どこの店も売り切れだった。

カナダの人たちは私以上に日食観察にワクワクしていたらしい。

Amazon でも売り切れ又は入荷待ち1ヶ月、オークションで保護メガネが元の何倍もの値段で売られているのを見て、泣く泣く諦めた。

 

それでも、せっかくの機会なのだし、どうにか自分の目で見てみたかった。

手作りで保護メガネを作れないか、それかケータイのアプリでそんな機能のついたものはないかと探したが、そんな虫のいい話でもなかったようだった。

別の方法を必死に探した結果、最後の手段として、木漏れ日の観察を提案された。

 

木漏れ日に、太陽の欠ける様子が反映されるというのだ。

 

小さな隙間を通った光が、ちょうど像を結ぶ位置で地面とぶつかると、その光源の形が写し出される。らしい。

こんなことを、いつだったかの理科の授業で習った気もするけれど、問題の解き方だけ教わって、本当のところ、なぜそんな不思議なことが起こるのか、未だにわかっていない。

 

難しい原理はわからなくても、木漏れ日で観察するという方法がなんだか素敵に聞こえたので、山に行って実践することにした。

当日、目的の山に着くまでに何度も迷い、予想外のルートを進む羽目になったりしたのだが、それはまた別の話。

 

日食が始まる予定時刻。

森の中でそれらしい光を探す。

それまで木漏れ日は、ただの木の影としか認識していなかった。そのせいなのか、どれが太陽の形をした影なのか、見分けがつくまでに時間がかかった。

ようやくこれが日食の影らしいと見つけたころには、太陽はだいぶ欠けていた。

木々の枝から見える太陽は、いつもと変わらないように見えた。それなのに、森全体が昼の空気を残したまま少しだけ暗くなる。

 

木漏れ日は、確かに太陽の形をしていた。

無数の三日月が地面に散らばる。

今見ている光は、本当に太陽由来だったんだと納得して、妙に感慨深かった。

幼稚な言い方だけれど、三日月型の影はなんだか愛らしくて、親しみを覚えた。

 

ずっとずっと昔の、「日食」そのものの概念を知らなかった人たちは、この現象をどう考えたのだろう。

数年に一度、ごく限られた場所でほんの1時間ほど起こる日食は、彼らの目にどう映っただろうか。

そこから神話が生まれたかもしれない。目に見えないなにか大きな力に翻弄されている気分だったかもしれない。

 

あの日からもうすぐ一年。

以来、晴れの日に木陰を歩くときには、木漏れ日を眺めるようになった。

そこに現れる太陽を探すのだ。風とともに揺れる小さな丸い光は、1億5000万キロ離れた先で燃えている星の分身なのだと考えながら歩くと、ハイキングがはかどるのでおすすめしたい。

 

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