あの犬この猫そこの馬

自然を基調に、エソラゴトをのんびり考えていく

コケが生み出す架空の箱庭 -チビ森-

小学生の頃、友達と「チビ森」と呼んで大事にしていた校舎裏のコケがあった。

コケの生えた地面は、まるで森が凝縮されたミニチュアがそこにあるようで、眺めているだけでワクワクした。

 

人差し指の第一関節にも満たない背丈の木々が、所狭しと生い茂っているように見えた。そんなコケたちに友達と「チビ森」という名前をつければ、なんだか自分が巨人になってその森を守る使命を与えられているようで、胸が高鳴った。

そこに住んでいるかもしれない小さい小さい動物や小人たちを想像しながら、足元に広がる森を眺めるのは、その当時の大きな楽しみだった。

 

学校の用務員さんに、お願いだからここの草むしりはしないで、とか、できれば毎朝水をあげてほしい、とか、無茶なお願いをしたのを覚えている。私たちの意見を汲んでくれたのか、それとも最初からその「チビ森」一帯の整備は必要なかったのか、用務員さんはそのままにしていてくれていた。

水をあげてくれていたかはわからない。そもそも「チビ森」には水やりは必要なかったのかもしれない。北側の校舎陰に生えていたそれらは、その日の天気によって青くて水々しかったり、カラリと乾いてしぼんでいたりした。

「チビ森」の木々たちには、水分に応じて変化する能力があったようだった。

 

一週間に何度か見に行っていたその森は、校舎裏の陰、しかも校長室の外側だったので、妙な緊張感とスリルもあった。

当時、校長先生といえば、(実際は温和でいい人だったのに、)何をしていても無条件で担任の先生に言いつけられるんじゃないかとかいう根拠のない、怖い印象があったような気がする。

 

「チビ森」への小さな小さな責任感と支配感は、まだ幼かった私にとってワクワクする感覚だった。私たちがこの箱庭を守らなければ、この森は枯れてしまうような気がした。

 

けっきょく、秋が深まる頃には落ち葉集めに夢中になって、「チビ森」のことなどすっかり忘れてしまった。冬の間、そして次の春になって学年が一つ上がったあとも、小学校にいる間じゅう、一度も思い出すことはなかった。

改修の多い小学校だったので、今どうなっているかはわからない。

確認しようにも、あの場所よりだいぶ遠いところまできてしまった。

 

今、まったく違う土地で、朽ちた切り株に密集するコケを見て思い出す。

生態系が凝縮されたようなその場所は、間違いなく小さな箱庭なのだ。

 

いろいろな植物や動物たちがひしめき合って、エネルギーを交換し続けている。種子が根を伸ばそうとモゾモゾ動き、微生物がその間をぬって進む。

その中を走り回る小人はいない。

けれど、目の前で実際に繰り広げられているであろう物語の壮絶さは、小学校の頃に想像していたものとあまり違いはないのかもしれない。

登場人物が少し違うだけで、大きな森の中で、「チビ森」はたしかにそこに存在している。

 

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